LIFE ACADEMIC

ESSAY

もし今生きていることに意味があるとするならば

 7月となり、今年も残すところあと半年となった。

 歳を重ねた所為もあるのだろうか…最近は自身の年齢をやたら気にしてしまい、「人生の終活に向けての本質的な生の在り方とは何か」と考える事が多くなってきた。ここでいう ”本質的な生の在り方” とは、言い換えれば” 生きる目的とは何か” とか”人はなぜ生きるのか”という哲学的思考に近しいものである。私の同年代でこのような”死と生”に関わる問題について深刻に考える人は少ないかもしれない。しかし、あえて問いかけてみると、友人・知人たちは、”幸せな家庭を築く”、”生活を楽しく過ごすことが第一”という日常の幸せに生の在り方を見出そうとする考え方を提示してくれる。

 だが、私の場合、この”本質的な生の在り方”という定義を考える時、どうしても ”日常の幸せ”に焦点を当てた考えではなく、”人は生きている間に何を残せるのか”という、自分の人生が社会に与える影響について考えずにはいられない。その理由については、もし私が生きている内に何かしらの痕跡や影響を残すことができれば、それが自身の分身として死後も社会を構成する一部となって生き続けてくれる、と考えているからだろう。では、誰もが社会に名を残せるような影響力ある人物になれるかというと、私も含め、多くの者が、スティーブ・ジョブズ、羽生善治、マイケル・ジャクソン、山中伸弥さんといった、誰もが知る人物になれる訳ではない。そうなると、社会に大きな功績を残せない者たちは、どのように社会における自分の生を意味づけることができるのだろうか。

 そこで私は、ここで「ミーム」という考えを用いて、この問いを再考してみたいと思う。「ミーム」とは、生物学者リチャード・ドーキンスが提唱した造語であり「非遺伝的な複製子」を指す用語である。遺伝子(gene)が実態的に広がっていく複製子であるのに対し、ミームは非実態に広がる遺伝子の複製子、と思ってもらってもよいだろう。

 例えば、哲学者ニーチェの本を読んで感動した大学生が、後にニーチェの思想を大学で教えるようになり、その講義を受け感化された生徒が、将来ニーチェの思想を研究するようになっていくとする。すると、ニーチェの思想が人から人へと受け継がれ、彼の思想が人々の記憶に留まり影響を与え続けることになる。このように、世代間を超えた遺伝情報のようなものがミームと呼ばれるものであり、先ほどの例で言えば、スティーブ・ジョブズ、羽生善治さんといった者たちがその格好のいい例となる。だが、ミームという考えをあまりに大きく捉えると、誰もが知る者たちの功績のみ語り継がれてしまい、そうでない者たちはミームを残せない事になる。そこで、ここではミームをもっと個人視点レベルまで落とし込んで再考してみたい。

 これは、例えば、Aさんがおすすめする生物の本をBさんに貸し、Bさんはその本に深く感銘して生物学の道を目指し研究者になったとする。そして、長年の研究成果の末、Bさんは世紀に残るような大発見をしてノーベル賞を受賞することになるのだが、もしこの時、Aさんという人がいなければ、Bさんはノーベル賞を受賞するような偉大な成果を残すどころか、違う道を歩んでいった可能性があったかもしれない。つまり、ここで言いたいのは、Aさんが行った本を貸すという小さなミームの伝達が、バタフライ効果のように大きな連鎖反応を起こして、社会を大きく変えるような発見に結びつく可能性があるということである。その為、私たちが普段何気なく行っている些細な言動も個々人に特有の”ミーム”として、もしかしたら社会を大きく変えたり、人の運命を大きく左右するような複製子となっているかもしれない。そんな可能性に思いを馳せれば、自分自身の無力さに嘆く事なく、誰だって存在する意義を見つけ、存在した証を残すことができるのである。

 私は普段、気に入った本を人に貸したり、ものをあげたりするのが好きなのだが、この行為は、私にとって”ミーム”を受け渡す行為にほかならず、いずれ社会を変えるような変革に結びつくかもしれないと思う期待なのである。勿論、こうした行動に対してどう解釈し行動するかは受け取った本人次第であり、必ず誰かの社会的功績に結びつくとは限らない。それでも、生きている者同士が積極的にミームのやりとりができたなら、人は刺激的な環境で生き生きと夢や好奇心を抱きながら、毎日を過ごすことができるのではないだろうか。