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モノ・サピエンス
臓器売買、代理母…ヒトは「パンツをはいたモノ」になり、やがて「使い捨て」られるのか?人間のモノ化(物質化・単一化)、「モノ・サピエンス化」がはじまったのは、広義にとらえれば人類の誕生とともに、少し限定すれば近代以降と考えられる。本書では、それをポストモダンの時代以降と想定。一九七〇年代から八〇年代にかけて、ポストモダンは世界的に大流行したが、この時代に「モノ・サピエンス化」が本格的にはじまったとする。さらにこの傾向に拍車がかかったのは、なんといっても九〇年代から。本書のテーマは「九〇年代以降の人間の状況」であり、このテーマに、さまざまな現象を通して迫っていく。(著者:岡本 裕一朗)
モノ・サピエンスとは、いってしまえば人のモノ化であり、消費者社会の到来と共に、人もモノのようにポイ捨て可能な存在になった今、どのような未来が私たちを待ち受けているかをテーマに書き進めている。
実際、人のモノ化の例として、試験管ベビーの誕生・臓器社会主義・派遣社員など、テクノロジーの進歩や社会変化に伴い生じている問題を題材に、それらが観念的なものではなく、倫理・法律・思想などに照らし合わせ、それらが果たして本当に問題であるのかについて詳細に指摘している。
こうしたモノ化の例として、一つ遺伝子操作を取り上げてみたい。
遺伝子操作といえば、2018年の11月に中国でゲノム編集をした双子の赤ちゃんを誕生させた事が大きな話題となったが、もし、こうした遺伝子操作を能力の平等化という観点から捉えればどうなのだろうか。これは、むしろ生まれの不平等を是正するばかりでなく、遺伝子レベルの差異までをも平等化する画期的な技術であるとも言える。しかし、その裏で働くのは、当事者たちの自由意志に基づく欲望であり、それ以外の遺伝子はポイ捨てされるという人のモノ化である。こうした「消費者優生学」が当たり前の世の中になれば、「優秀な遺伝子」ばかりが満ち溢れた均一的な社会が出現しかねず、人間という種の存続から考えてみても、それが果たしてよい選択なのかどうか、と疑問を投げざる負えない側面が発生してくる。
本書では、こうしたモノ化に対していくつもの事例を取り上げ検討しているが、これを「人間の尊厳」という理由だけで、批判するのは大変難しいとしている。それは、人間の尊厳という概念自体が抽象的かつ曖昧で、定義が非常に難しいものだからだ。そして、それならいっそ「モノ・サピエンス」化への潮流を止める事なく、「モノ・サピエンスの尊厳」を擁護できる枠組みを検討した方がよいのでは?、との意見を著者は述べている。
こちらの本が執筆されたのは、2006年だが、2019年現在、まさに人間のモノ化が急速に拡大していると思うのは、私だけではないだろう。果たして人間のモノ化はどこまで続くのだろうか…。
追記
モノ化する例として、本書では、援助交際も取り上げているが、なぜ援助交際の是非について論理的批判が大変難しいのか、その理由についての説明が個人的に「なるほど」と思ったので追記しておきます。これについては、私たちの社会において、ロックやミルの思想が知らず知らずのうちに私たちの常識を形作っているからとしています。それが、下記の労働所有説と他者危害説です。
ロックの労働所有説
人はだれでも、自分自身の一身については所有権を持っている。これには彼以外の何人も、なんらの権利も有しないものである。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものは何でも、彼が自分の労働を混じえたのであり、そうして彼自身のものである何者かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。(市民政府論)
ミルの他者危害説
文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるものではない。そうするほうが彼のためによいだろうとか、彼をもっとしあわせにするだろうとか、他の人々の意見によれば、そうするほうが賢明であり正しくさえあるからといって、彼になんらかの行動や抑制を強要することは、正当ではありえない(自由論)
こうした「自分のモノやカラダについては、他人に迷惑をかけない限り、自分自身で決定できる」とする原則は、日常生活のほとんどの場面で力を持っており、援助交際にもこの思想が当てはまってしまうので、論理的批判が大変難しいそうです。