ESSAY
運命の相手とは?
先日、久しぶりに東京の友人と出会う機会があった。約1年ぶりの再会という事もあり、仕事や趣味の話などで大いに盛り上がった。そして、話の途中で、”運命の相手”について話し合う事があった。ここでいう運命の相手とは、恋人・友人問わず、自分が生涯を通じて関わっていきたいと思うような人物の事である。友人曰く、運命の相手は、確率と密接に結びついているのではないか、とのことだった。それは、特定の人物と出会う可能性が低ければ低い場所ほど、その場所で出会った相手があたかも運命的に引き合わせられたかのごとく感じられるのではないか、という意見である。これについて、もう少し具体的を交え話をしてくれた。
彼の考えでは、運命はそもそも人と出会う確率と結びつきがある。例えば、同じ面積を持つ人口100人の村Aと人口1万人の村Bを想定してみよう。人口1万人の村Bでは、母数が村Aに比べて多いので不特定の誰かと出会う可能性が高くなる。それに対し、人口100人の村では、母数が村Bに比べて少ないので、そもそも人に出会う可能性が村Bに比べて低くなる。最も単純に考えれば、村Aで単位時間あたりに誰かに出会う確率は、村Bのそれに比べておよそ1%程度しかない。その為、そもそもの出会いの可能性が少ない場所ほど、気の合う相手を見つけた時に運命のパートナーと見なす傾向が強まるのではないか、というのが彼の考えである。
確かにそもそも人に会う確率が低い場合に、理想の相手と出会うというさらに起こりにくい事象を運命と感じる、という考え方は頷ける。ただ、もし確率を人と出会う確率ではなく、コミュニティーに存在する特定の人物と出会う確率と考えたらどうだろうか。その場合、村Bの方が村Aより多くの人が住んでいる為、全ての人の中からある特定の1人を選べる確率はBの方がはるかに小さい。そうすると、人口の多いBのほうが、多くの可能性の中から起こりにくいわずかな可能性を選んだという意味で、より”運命の相手”に近づくのではないだろうか。この点を指摘すると、友人は「確かにその点については見落としていたね…」と頷いていた。確率を軸とした考えでは、何を起こりにくいと認識するかで運命の感じ方が変わるというのは非常に興味深い指摘であった。その一方、“運命”という人間の認識が介在してしまう問題に対しては、なかなかに定量的な議論は難しいと感じた。
続いて友人は、今度は私に「じゃあ反対に”運命の相手”ってなんだと思う?」と逆質問してきた。これに対し私は、自分の意思との関わりで”運命”というものを捉え答えを試みてみた。すなわち、「極力自分の意思決定を挟まないで出会った相手、乃至は、見えない力によって”必然的に出会えた”と感じられるパートナーこそ運命の相手と呼ぶのではないか」と。
”運命”という言葉の意味を考えると、運命の相手とは、本人の意図的な選択とは無関係に巡り合ったパートナーであるように思える。出会いが受動的であった場合において、その出会いはおそらく確率的なものとみなせるだろう。しかし、それが自分にとって理想的であった場合にはどうだろうか。あたかも、その出会いは神の見えざる力に決定づけられた必然、すなわち”運命”と感じてしまうのではないだろうか。しかし、ここで私はさらに思う。運命とは”誰かと出会いたい”という意思とは無関係に生じた出会いにだけ生じうるものだろうか。アプリやパーティーなど、現在では出会い自体を目的とした機会も多い。そうした機会で生じた出会いに、”奇跡的な必然”は存在しないのだろうか。そんなことはない。意図的に相手との出会いを求めた場合においても、相手が同じタイミングで同じ内容の行動を起こしていなければいけない。さらに、つながりを持ち続けたいというマインドを共有できなければならない。そうした偶然の重なりがなければ、その人と関わりを持ち、パートナーとなり得る事はなかったはずである。この偶然は、十分に”奇跡的な必然”と思い込むに足る事象ではないだろうか。そう考えると、運命の相手とは、本人が出会いを意図するしないにかかわらず、”なんらかの必然に導かれたと思える”ほど、心のつながりを持ちたい相手ということだろう。
人は1日の中で約35000回もの選択をしているとされている。その一つ一つが未来を決める重要な要素である。その中には、出会いに関わる選択も多分に含まれていることだろう。いつどこへ出かける、出先でちょっとした寄り道をする、そんなありふれた選択も誰かと出会うきっかけになる。その時その時の選択、そして結果としてもたらされる出会いひとつひとつの偶然を大事にしたい。それがきっと、その人だけの”運命の相手”に結びつくのだろう。