ESSAY
“無駄”な学びは無駄なのか
最近、漢字にはまっている。普段、プログラマーという職種でコードばかり入力している事もあり、活字を書くのが最近とても楽しく感じているのだ。そんな楽しみを分かち合いたいと思い、友人にその話をした所、「おお、それはいいね!」と私事のように喜んでくれたのだが、それと同時に「でもどうして漢字なの、活字を書きたいならもっと将来使いそうな文字や言葉を書き取ったりした方がいいんじゃない」との返事をもらった。
友人の指摘は尤もかも知れない。何せ、私が今学んでいる漢字は既に常用漢字として使われておらず、おそらく今後使う機会が滅多にないといっていいほどマイナーな漢字ばかりだからだ。活字に飢えているのなら、おそらく英語や中国語を書き取ったり、資格試験の用語を覚えた方が遥に実用的だろう。
だが、この一見”無駄”のように思える学びを、私は”実用的”な学びに対して価値が薄いものかと問われれば、否と考える。そして、もしその理由を尋ねられたなら「いつか役に立つかもしれないから」と答えるだろう。しかし、「そんな曖昧な返事は答えになっていない」と言う人がいるかも知れない。それに対し、私はこの「根拠なき根拠」とでもいうべき理由を再考するとき、「ブリコラージュ」という言葉が頭に浮かぶ。
ブリコラージュとは、人類学者のレヴィ=ストロースが提唱した用語である。レヴィ=ストロースは、南米のマト・グロッソの先住民達を研究し、彼らがジャングルの中を歩いていて何かを見つけると、その時点では何の役に立つかわからないけれども、「これはいつか何かの役に立つかも知れない」と考えて袋に入れて残しておく、という習慣があることを発見した。そして、実際に拾った「よくわからないもの」が、後でコミュニティの危機を救うことになっていたのである。
こうした事例は何も先の例に限った話ではない。例えば、アメリカにおけるアポロ計画は、少し引いて考えれば、それがこの先何の役に立つのかわからないプロジェクトである。しかし、アポロ計画によって医療の分野(特にICU(集中治療室))に大きな貢献がもたらされた。それは、宇宙飛行士の生命や身体の状況を、遠隔地からモニターして、何か重大な変化が起これば即座に対応するという、アポロ計画のような長期の宇宙飛行においての必要性から生じた技術が誕生したからである。
また、1979年に発売された「ウォークマン」は、当時SONYの名誉会長だった井深大が「海外出張の際、機内で音楽を聴くための小型・高品質のカセットプレイヤーが欲しい」と言い出した事を契機に開発された特注品であった。この商品を同じく創業経営者の盛田昭夫に見せたところ、盛田もこれを大いに気に入り、製品化にゴーサインが出されることになった。だが、 現場の者はこの指示に反発した。それは、当時の市場調査から、顧客が求めているのは大きなスピーカーであり、多くの人がラジオ番組を録音して楽しむためにカセットプレイヤーを購入していることを知っていたからである。しかし、現場の予想とは相反し、ウォークマンは世界で累計販売台数4億台以上に上る大ヒットを遂げたのである。
その他にも、1935年にアメリカのデュポン社によって発明された世界初の合成繊維であるナイロンは、デュポン社が企業内に基礎研究の場を設けた事がその成果へと繋がり、軍事技術の開発の為に作られたインターネットは、今ではソーシャルネットワークやIoTといった社会インフラの基盤を担っている。
勿論、その学びの用途がはっきりしている目標設定、例えば、受験勉強であったり資格試験といったものは、目的に裏打ちされた強い動機を与えるため、あるに越した事はない(というよりむしろあった方がいい)。ただ、前述の事例を見返せば、思いもよらない方向で達成される大きな発見や成果の裏には、直感や好奇心に導かれて行う学びや行動があった。こうした学びや行動は、既存の枠組みにとらわれない見方・展開の発想を醸成するには必須であるとも言えるだろう。そうすると、今は一見”無駄”に見えるかもしれない漢字の書き取りも、いつか思いもよらない形で何かと有機的に結びつき、自分や社会に還元できる日が来るのかもしれない。人間が進化させてきた”学び”の本質は、純粋な好奇心に動機を得たものにこそ秘められているのではないだろうか、と改めて考える今日このごろである。
引用文献
山口周(2018) 『武器になる哲学』 KADOKAWA
山口周(2017) 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 光文社