ESSAY
恋愛は如何にして成立するのか
先月の10月、Amazonプライムでバチェロレッテという番組が放送された。バチェロレッテとは、番組のヒロインとなる一人の女性が、複数の男性たちの中から、将来パートナーとなる男性を見つける番組だ。バチェロレッテでは、そんな未来のパートナーを見つける為、様々なイベントや企画を通じ、お互いをよりよく知っていく為の機会が設けられている。そんな恋愛リアリティ番組という事もあり、ストーリーの中ではしばしば「愛とは何か?」というテーマが取り上げられている。
このテーマに対し、ある参加者は「愛とは生きる行為そのものであり、私たちの日常生活全てに愛が詰まっている」と考えたり、ある者は、「自分を犠牲にしてでも守りたいと思う気持ちこそが愛である」という考えを示している。
「愛」とは、人を思う気持ちの一形態ではあるのだろう。しかし、その具体的な解釈については、人の価値観はそれぞれ異なり、多様な理解の仕方がある。では、「恋愛」についてははどうだろうか。恋愛も多分に主観的な要素を含む。というより、自分の感情が先行する分、愛よりさらに主観的なイメージが有る。恋心を抱くきっかけは人それぞれであるものの、他者が自分が好きになった相手に対して同じように恋心を抱くとは限らない。逆もしかりである。しかし、”恋愛”自体は多くのヒトが共通して経験する。では、”恋愛”はそもそもどのように成り立っているのだろうか。恋愛の成立について、思想家の内田樹氏はこのように述べている。
恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。自分の愛する人が世界最高に見えてしまうという「誤解」の自由と、審美的基準の多様性(というより「でたらめさ」ですね)によって、わが人類はとりあえず今日まで命脈を保ってきたわけです。生物種というのは、多様性を失うと滅亡してしまうんですからね。
(中略)
私たちが自分自身の恋愛関係の中で経験している愉悦や幻滅や快楽や絶望は、まわりにいる人間には決して同一のリアリティをもって経験されることがありません。でも、それこそが恋愛という経験のいちばんすばらしいところではないでしょうか?だからこそ、みなさんも「世界最高の恋人」にいつか出会えるのではないかという願いをひそかに胸にして、毎日暮らしていけるわけです。
(中略)
「どきどき感」のこれはひとつの典型なんですけれど、「誰も気づいていないことに、私だけが気づいていた」という経験て、たぶん人間にとって、「私が私であること」のたしかな存在証明を獲得したような気になるからでしょうね。恋も科学の実験もそういう意味では、とても人間的な営みなんです。恋に落ちたときのきっかけを、たいていの人は「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている」という文型で語ります。みんなが知っている「よいところ」を私も同じように知っているというだけでは、恋は始まりません。
– 内田樹『先生はえらい』-
相手の笑った顔や何気ない気遣い…そういった仕草でも、誰もが全く同じように感じ取っているわけではない。「私だけが気づいている魅力」と、「あなたが気づいてくれた私だけの魅力」を発見するときにこそ、人は相手と自分の存在価値を強い主観の元に認めて、その関係性を本物の「恋」として実らせるのだろう。多様性はヒトという生物種の特徴であり、我々のアイデンティティの源であるが、恋愛にはその典型を見ることができる。バチェロレッテ参加者の皆様には、是非今後も”わがまま“に「私たちしか知らないお互いの魅力」を共有できるパートナーを見つけてほしいものである。
参考文献
内田樹(2005) 『先生はえらい』 筑摩書房