ESSAY
「自由意志の存在」について考えてみる
先日、『未来世紀ジパング』という経済番組をオンデマンドで見ていると、コストコの営業販売戦略について放送されていた。
コストコと言えば、まるでテーマパークのようなマーケットストアで有名だが、営業担当者いわく、「弊社では、人の行動心理に基づく営業戦略を立てることで、売り上げを大きく伸ばしている」と言っていた。
その例として、例えばコストコで買い物をする際には年会費(4400円)を支払う必要があるのだが、これは、支払った元を取ろうとする行動心理(サンクコスト効果)を利用したもので、他にも高額商品を先に見せることで他の商品を安く感じさせるアンカリング効果、試食販売をしてお客さんに親近感を抱いてもらう返報性の原理など、数々の行動心理に基づく販売方法が紹介されていた。
こうした販売に対し、実際に消費者からも「せっかく年会費を払ってるんだからコストコで買い物をするようにしている」「コストコの買い物カゴは大きいからついつい商品で埋めたくなってしまう」という声があがっており、コストコの消費者心理に基づく営業は見事に成功しているといっていいだろう。
私はこの番組を「コストコやるなあ…」と思いテレビを眺めていたのだが、それと同時に「ちょっと待て…人ってもしかして、自分で意思決定しているように見えて、実はしてないんじゃないか」と思いぞっとした。というのも、なにしろ行動心理に基づくコストコの販売効果をすんなり認めてしまったら、人はロボットと同じように操作可能な存在で、そこに自由意志など存在しないことを認めることになるからだ。
これについて一つ、私の卑近な例を出してもう少し説明してみたいと思う。
私は高円寺にあるとあるラーメン屋さんのラーメンが好きであり、月に一度は必ずこのお店のラーメンを食べてしまう。これを先ほど説明した行動心理に紐づけて考えるなら、私はここのラーメンをおいしいと判断したから食べているのではない。そのラーメン屋さんのおいしいラーメンに引き寄せられた結果として私はそのラーメンを食べているのである。
つまり、お店側からしてみれば、私が数あるお店の中からこのお店を選んだという意思決定プロセスはどうでもよく、おいしいラーメンを作ればお客さんが来るという事実の方が大切であり、私は見事その条件行動に当てはまったロボット人間だったということである。
そんなわけで、私はそれからというものの、家の近くにあるコンビニに行ったり、本を買ったりする度に「ああ…私がここで買い物をするのは、このお店のオーナーがこの立地、またはこの商品にこのぐらいのニーズがあると分析したからで、自身の自由意思に基づいた消費行動ではないのか…」としばらく悲観に暮れていたのだが、なんとかこの屈辱的状況を打破したいと思い、ある時、ラーメン(勿論高円寺!)を食べながらこんな発想をしてみた。
「そうだ、人の行動が他者によって操作されているのなら、自分の意思決定に基づく行動原理を生理現象に置き換えて考えてみたらどうだろうか」
要するに、こういうことである。
私たちは何か物事を決める時、自分で意思決定をしているようにみえて実はしていない。それは、私たち一人一人の行動が、周囲の環境に大きく依存しているからだ。
ならば、自分の意思決定の拠り所を、自分にはそれがどうしても必要でならなければならない理由、つまり、人が水がなければ生きられないのと同じように、自身の意思決定も自分の体を構成する一部のパーツとして認めてあげるべきだ
これを先程のラーメンの話でもう一度例えるなら、私が高円寺にあるラーメン屋さんでラーメンを月に一度必ず食べるのは、そのお店のラーメンをおいしいと思って食べに行っているのではなく、私はそのお店のラーメンを食べなければ生きていくことができない、と考えるのだ。
この論法を取れば、前者の「そのお店のラーメンがおいしいから食べに行く」という主体的意思決定プロセスは存在せず、自分の体がラーメンを欲していたからラーメンを食べにきた、という受動的状態にまで持ち込めることが可能となり、サンクコスト効果、アンカリング効果というような行動心理に基づく方法は通じなくなる。
なぜなら、この時の意思決定は自分で考えたものではなく、自身の体内に組み込まれている行動原理に従っているからで、こうした人の体内に組み込まれた先天的性質は、いくら相手が統計分析をしたとしても予測可能なものではないからだ。
よって、私は自身の決定を私自身の本能に委ねることで、僅かながらの自由意志を見出すことができ、考えることで自由になれたのである!
あとがき
今回自由意志を考える上で、これ以外にも別のアプローチを方法を考えてみました。
例えば、もしあなたがアメリカに行く時、友達に「どこかいいオススメの場所ある?」と尋ねたとします。そこで、友達に「ここがいいよ」と言われたら「じゃあそこにはするね」とは言わずに、敢えて「じゃあそこにはいかないね」と、わざと相手の言われたことに反する行動をとってみる方法です。こうすれば、機械的に返事をするよりも、自分は相手が言われとことにそのままイエスと行動する人間ではないという一つの独立した意思表示になります。
他にも、実は私に自由意志など存在していないのではないか、と考えるだけで、私は無意識の行動を自覚した上で行動している、だから私に自由意志は存在している、といったアプローチ方法もあることに気づき、いろいろと想像が膨らみました。
ただ、前者の行為は相手からしてみれば迷惑以外の何物でもなく、しかも自分の思考プロセスの中にunless文(もしこうでなければ)が組み込まれていたら、これも結局は機械的に組み込まれた行動といって良いでしょう。 そして後者も同じように、結局無意識の行動を自覚した上で行動していたとしても、結局自分のしている行動は何も変わらないわけなので、ただ解釈を曲解しただけだと言われても仕方のないことでしょう。
そういう補完しきれない部分があるという意味では、今回本ブログで紹介した論法にも当てはまり、自身の意思決定を本能に委ねるのは先天性に頼る為、自由意志と呼べないのではないか、という疑問が湧いた方もいらっしゃるかと思います。その意味では、この説はまだまだ不完全な要素を多分に含んでおり、後者の反論も当てはまるわけなので、こちらの説も完璧であるとは言えません。
ただ、個人的にこの考え方は大きな発見だったので、ライフアカデミック的に取り上げてみました。
悪しからず。