ESSAY
死後の世界は存在するのか?
「あらゆる生あるものの目指すところは死である」
これは、精神医学者ジークムント・フロイトが残した言葉だ。
人は死んだ後どうなるのだろうか?何も早死にしたいわけではない。これは私が長年疑問を抱いているテーマであり、皆さんも一度は死後の世界について思いを馳せたことはあるのではないだろうか?
その答えを探し求め、私は心霊ドキュメンタリー番組や臨死体験の話を見聞きするのが好きなのだが、実際に私自身霊媒師でも幽霊でもないので、結局の所、その存在の有無について定かではない。
そこで、万物の書である「聖書」を手に取り調べてみると、ヨハネ(イエスの使徒の一人)が死後の世界を巡った時の見聞録があり、そこにはこのように記されている。
「また私(ヨハネ)は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 ‥‥神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』‥‥」
(ヨハネの黙示録21:1 ~ 4)
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池(Lake of fire )に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
(ヨハネの黙示録20 : 11 ~ 15)。
この記述は、前者が天国で後者が地獄について述べたものだとされているが、確かに人間の社会的倫理モラル、そして情念といった規範に照らし合わせ考えるなら、ここに書かれている内容は的を射ているかもしれない。
だが、捻くれてる性格が災いしているせいなのだろうか、私は神という全知全能の存在がこの世界にいるのなら、なぜ世の中はこうも不平等に満ち溢れているんだろう、とか、倫理的モラルが時代によって移り変わる社会の中で、天国と地獄にいく者の基準を不変の真理として聖書に委ねてもよいのだろうか、と、どうしても神の存在を前提とした宗教的死後の世界観に疑問を持ってしまう。これは何も聖書を否定したいわけでは全くない。
そんなわけで、もう少し論理的アプローチがないものかと煩悶としていたわけだが、『モーガン・フリーマン時空を超えて』というテレビ番組を見ていた時、米アリゾナ大学教授の麻酔科医スチュワート・ハメロフさんが、死後の世界についてこのような面白い見解を示していた(注1)。
「死後の世界はあるのか」この説の根幹をなすものは、脳細胞の中にあるマイクロチューブルという構造で、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられているが、従来のコンピューターとは違う、量子コンピューターとして機能させる役割を担っていると考えられている。
一般に脳は、ニューロンの集合体だと見なされており、一つのニューロンが活動すると、シナプス(ニューロン間の接合部)を経て、次々と他のニューロンに信号が送られ脳全体に信号が送られる。(例えると、ドミノを一つ倒したら、前にあるドミノが次々と倒れて行くような感じ)。
しかし、量子コンピューターでは、量子もつれと呼ばれる未知のプロセスを経て、情報が伝達される。それは、ある場所でニューロンの活動が起きたとすると、空間的に全く離れた別の場所で、それに対応した反応が起きるという現象だ(こちらは、ドミノを倒したら、倒したドミノと全く別の場所にあるドミノが倒れるイメージ)。
量子論では、何もない空間でも情報が伝わり、量子情報は宇宙を含め全ての空間に存在している為、あらゆる場所に情報が伝わり反応する。
この説が正しいとすると、マイクロチューブル内にある情報は外にある空間と繋がり、脳内の意識が量子もつれによって、広く宇宙全体に存在する可能性がある。
この理論を応用すると、臨死体験の謎も解けてくる。心臓が止まり、血液が流れなくなると、脳は量子コンピューターとして機能しなくなるが、マイクロチューブル内にある量子の情報(ここでは魂)は破壊されない為、宇宙全体に散らばっていく。そして、患者が息を吹き返すと、散らばった量子情報は再び脳内に戻るので、亡くなった家族にあった・体を抜け出したという体験談があるのだろう。
現に、臓器移植で患者の大動脈が止められた時、脳に血液が流れていない患者のモニターをチェックした所、脳のニューロンが爆発的に活動している現象を確認している。
この考察に基づいて考えると、意識は脳の中で形成されるだけでなく、量子が存在しうる限りは、宇宙、もしくそれ以上の世界にまで拡散しうるということになる。そうすると、脳は死後の世界を量子ゆらぎに基づくプロセスで認識できる可能性があり、現代科学の常識を覆すことになる(だろう)。
実際にこの理論、全く信憑性がないわけでもなさそうだ。
脳神経外科医のエベン・アレグザンダー医師は、自身が細菌性髄膜炎(細菌が脳や脊髄を包む髄膜に感染し脳を攻撃する病気)に襲われる際に臨死体験を経験したが、その後、自身でその時の脳内活動を調べると、脳の大部分の活動が停止していたにも関わらず、臨死体験をしていたことが明らかとなった。
この臨死体験を脳内における錯覚ではないのか、と指摘する意見もあるそうだが、これはエベン医師の専門分野における見解からしても、脳内の錯覚ではなく臨死体験をしたとしか説明がつかないそうである(注2)。
また、2018年2月には、脳死患者9名の家族の同意のもとに、生命維持装置を外した後の脳内活動の記録記録が医学誌に掲載されている。それによると、血液の循環が停止すると、脳内の酸素濃度が下がって脳波も平坦となっていき、最終的にニューロンで「ターミナル(終末)拡延性脱分極」として知られる現象が確認されている。
これは、ニューロンへの酸素配給が断たれ、細胞内のエネルギー源(ATP)がなくなり、細胞の内外のイオンのバランスが崩れて元に戻せなくなった破綻状態である。 終末拡延性脱分極がおきた部分は回復不能で、拡延性脱分極の専門家であるドイツ、シャリテ大学大学院神経科教授のイェンス・ドレイアー博士は、上述の論文の中で「終末拡延性脱分極は、死につながる最終的な変化の開始である可能性がある」と述べている(松田, 2018)
こうした実証例を踏まえ、再度ハメロフ氏の仮説を考えると、確かに死後の世界は存在するという彼の説は説得力がありそうだ。
こうした科学的エビデンスの提示に対し、結局の所は実際に死んでみなければ死後の世界が存在するかどうかなんてわからないからそんなことを考えても意味がない、という意見もおそらく中にはあるだろう。
だが、人は生まれながらにして「生きる」ようプログラムされた生物であり、死ぬことを目的として創造された生物ではない。人は、今ある「生」をより輝かせる為に「死」を意識して考えるのであり、その考えるという行為自体に非常に意味があるからこそ、人は答えのない死後の世界について思いを馳せ、大いに悩み考えるのだと私は思う。
いずれにしても、死後の世界というテーマは、我々人類にとって不変のテーマであり、もしかしたら、死んだ後の世界は人が眠っている時のように何も存在しない世界かもしれない。だが、それでも我々は死について考えることをやめないだろう。
なぜなら、死を考えるのは死ぬ為でなく、まさに、生きる為だから
by アンドレ・マルロー
※おまけ
今回死後の世界について調べていたら、その過程で、死に関する様々な名言を見つけました。 せっかくなので、個人的に面白いと思った名言を4つ紹介したいと思います。
・なぜ死を恐れるのですか。 まだ死を経験した人はいないではありませんか。 by ロシアの諺
・最初の呼吸が死の始めである。 by トーマス・フラー(英国の神学者)
・人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、 生きているということを実感することもできない。 by マルティン・ハイデガー(ドイツの哲学者)
・天国はすごくいいところらしい。だって、行った人が誰一人帰ってこないのだから。 by 作者不明
注1- こちらの番組は数年前にディスカバリーチャンネルで放送された番組で、日本でもEテレで放送された(2018年3月再放送終了)
注2- この臨死体験の詳細については、エベン医師が著書『プルーフ・オブ・ヘヴン』にその体験を綴っているが、そこでは、臨死体験をした時に見た数々の奇跡的な体験が描かれている。
参考資料
エベン アレグザンダー著, 白川貴子訳(2018) 『プルーフ・オブ・ヘヴン―― 脳神経外科医が見た死後の世界』 早川書房
松田壮一郎(2018) 「「死」とは何か 実はあいまいな生と死の境界線」,『Newton』,10月号